CULTURE STAND

カルチャー多め。演劇、アニメ、美術、音楽の周辺について。

APOGEEは「たゆたう」だと思う。心が揺れて、心が蕩ける。そんな音楽。

APOGEEの音楽を一言でいうなら、「たゆたう」だと思った。

11月4日、湿り気のある空気が渋谷の街を包み込んでいた午後6時。APOGEEのワンマンライブの幕が上がった。APOGEEはほんとうにマイペースなバンドで、2009年にアルバムをリリースしてから「解散します」とも「活動休止します」ともいわずに、パタリと活動をしなくなった。その後、突如アルバムをリリースし、久々のライブを敢行……したかと思えば、またライブは数年・数か月先、までライブはおあずけ。といった具合だ。なんでもメンバーの2名が医療系の大学・大学院に進学したそうで(彼らはみな30オーバーの大卒。そのバイタイリティにもほんとうに脱帽する)、そのこともあって、頻繁に活動をすることができなかったのだそう。

会場には、20~40歳代のオトナな男女が詰めかけていた。APOGEEが最も盛んに活動していたころは、2007年~2008年ごろ。APOGEEの2013年以降のライブに足を運んだ人々の胸に去来する共通した感情は「あれ、APOGEE好きな人ってこんなにいたんだ?」ということ。一時は音楽業界から姿を消したかと思われたバンドの音楽を、こんなにも多くの人がまだ愛しているということ。求めているということ。さまざまな情報が矢継ぎ早に過ぎ去っていく現代において、純粋に「この音楽が好き、聞きたい」という固く熱い感情が存在するということ。それはもう、汚れ切ったオトナたちである僕らにとっては、奇跡といってもいいほどのことだ。WWWには、いい歳をしたオトナたちの、そんなイノセントな感情が漂っていた。

淡い淡い水色の光や、目を射るようなハッとするほどの光。そこに流れ込む、ボーカル・永野亮のそれはそれは伸びやかな声。こんな言葉は手あかがつきすぎてほんとうに使いたくないけれど、心から思う。唯一無二の声だと。

APOGEEが一音ならすとそこはもう、幻想的で、でもどこか怪しい、とことんAPOGEEな世界に早変わりしている。美しきエレクトロの音色に乗せて展開される浮遊感のある世界から、彼をひたすら待ってしまう女の執念が渦巻く危うい世界まで。APOGEEの音楽はほんとうに多彩で、多様だと思う。

それでもあえて彼らのあらゆる表現に共通項を見出すなら、「たゆたう」という言葉なのではないか。

「たゆたう」には、「①物がゆらゆら動いて定まらない。ただよう。 ②心が動揺する。ためらう。」という意味がある。彼らの楽曲には、よく「空」や「宇宙」や「星」を思わせるものがある。それらは、ほんとうに、宇宙空間を、空を、手を漕いで泳いでいるかのような音楽だ。浮遊感と、ほんの少しの高揚感。空を泳ぐとき、高揚しない人間はいないでしょう。「夜間飛行」や「Star Honey」あたりの、宇宙の広がりを感じさせるよなダイナミックで美しいサウンドと、対照的にとても感性を刺激するセンチメンタルな詩。そのコントラストこそAPOGEEの音楽の醍醐味だと思う。


Apogee - 夜間飛行


Star Honey/APOGEE

 

「たゆたう」の②の意味。「動揺する」というもの。そう。APOGEEの音楽は、心をぞわぞわさせるのだ。たんにきれいなだけじゃない。たんに壮大なだけじゃない。時には、恐ろしい予言のような歌詞もあったりする。

ほら 世界が音をたてて

二つに割れはじめて

片っ方が沈んでいくよ

片っ方に登って行けよ

ーー「ESCAPE」

心が昂揚してゆらゆら動かされること。恐怖でがくがく震えること。そのすべてが「たゆたう」であり、APOGEEの音楽といえるのではないかと思う。彼らは、海に浮かぶ小舟のように、彼らなりのゆるりとしたペースで、まさにたゆたうように音楽を作り続けてくれている。

 

ちなみに「たゆたう」は「揺蕩う」と書くそう。心が揺れて、心が蕩ける。そんな音楽です、APOGEEは。本当に大好き。 

木ノ下歌舞伎「隅田川/娘道成寺」について

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先週末に見てきましたよ、木ノ下歌舞伎。薄れゆく記憶をもとに雑文を書きますよ。

 

木ノ下歌舞伎、本当に大好きでね。「黒塚」でやられて以来、東京で見られるものは結構見ています。開場時間には絶対遅れないように駆けつけ、当日パンフレットは必ず熟読します。かなりファン。なんていうか、本当に木ノ下歌舞伎を通じて古典と心を通じ合わせられるんですよね。古典って、かなり単純なものが多くって。今回の公演もそうだけれど「子どもを連れ去られて悲しい」とか「愛する人と一緒になれなくて辛い」とか。そういうマジ超絶普遍的な感情に揺れ動く人たちの様が、ファンタジーな要素とともに描かれる。けっこう、いいもんですよ。かなりドラマチックで。歌舞伎を真正面から見に行くと、結局セリフが一言も聴き取れなくってまじつまんなかったな、ってなってしまうんですけれど、木ノ下歌舞伎は違いますよ。木ノ下歌舞伎は、歌舞伎をはじめとした古典作品を「現代演劇の舞台にのせてみたらどないなりますかね?」っていうことに常に挑戦している団体で。もう全然、歌舞伎の知識必要ないです。普通に現代演劇として見られる。古典作品気になるけれど、勉強するのがしんどいっていう人には絶対おすすめ、木ノ下歌舞伎。

 

で、今回の公演。「隅田川/娘道成寺」。なんとダンス公演ですよ。「隅田川」のほうを白神ももこさんが、「娘道成寺」のほうを、きたまりさんが踊ります。さっきも書いたように、私は木ノ下歌舞伎のドラマ性みたいなところがすごくすきなので、今回ダンス公演ということでどうかなあと思っていましたがお見事です。超よかったですよ。

まず白神ももこさんによる「隅田川」。ひとさらいに息子を連れ去られた母親が、彼の塚を隅田川で発見して、そこで息子の霊に会う。んだけれど、夜明けとともに息子の霊が消えて行ってしまって悲しい。っていうような内容。一番はじめは、現代の隅田川のクルーズ船?かなにかの船頭を務めている白神さんが登場して、現在の隅田川の観光名所をアナウンスしていくというシーンからはじまります。このシーン、すごく重要だったなって思って。なんというか、このシーンがあったことで劇場が一気に隅田川の川辺になったというか…。結構長くやってくれたんですよね。アナウンスとともにアサヒアートビルのあの金のオブジェとか、スカイツリーとかが観客の脳裏に浮かぶ。「隅田川」を思い浮かべさせるにはすごく良い時間だったなと。で、いま振り返ったら本家「隅田川」にも出てくるんですね、船頭さん。母親に息子の死を知らせる役。この辺のリンクも心憎いですよね。

 

それで、さらに印象的だったのは、母親を表す白神さんが、息子の塚にまたがるシーン。塚は三角錐のとがった部分を切り落としたような、プッチンプリンを皿に出したようなそんな形をしているんですけれど、そこにこう、上からガバッとまたがるんですよね。このシーン、息子の塚を見つけたときの様子なのか、息子(の霊)と再会を果たしたときの様子なのか、なにを表しているのかはきちんとは説明されないんですけれど、まあいずれにせよ、このね、またがり方にね、すごく母性を感じました。エロいとかっていうのでは全然なくって、なんていうのかな、なんかこう周りの目を全く気にしない覆いかぶさり方というか…子を守る母親って、こんな感じで一心不乱なんだろうなあと。体全身で抱きかかえる、覆いかぶさる。「隅田川」は"狂女物"と呼ばれているらしいんです。息子がいなくなって、結果再会できずに死んでしまって、やっと霊で再会できたと思ったのにまたいなくなってしまったという悲劇的状況をうけて狂った女を描いているから。この"狂い"は母性からくるものだったんだなあと思います。それって、きっとどんな女の人にも、男の人にさえもあるものですよね。白神さんのダンス。初見でしたがすごい見ごたえ。肉体って感じ。うん。コンテンポラリーの方の体は細すぎなくていいですよね。

 

そして「娘道成寺」。きたまりさんの迫力やばかったー。こちらの話は、ひとめぼれした男にそっけない態度をとられてブチ切れた女が、蛇に代わってしまってその男を焼き殺すというような古典がもとになっています。で、その女の化身である白拍子(踊ったり舞ったりする人)が、道成寺に戻ってくる様子を描いたのが「娘道成寺」。白拍子ということで、きたまりさんは最初、白装束のうえに赤い衣をまとったような衣装で登場するんですよね。で、だんだん踊りながら脱いでいくと。その様子がなんともまあ「蛇」っぽくて気色悪い(笑)。脱皮しているようでした。脱皮して脱皮して、だんだんと女の肌が見えてくるのが、コワイコワイ。きたまりさんのメイクや表情もすごかった。白塗りっぽい下地に、目元に赤を差す、あのメイク。これ仮に、きたまりさんが滝川クリステルみたいな顔だったら、あれ、全然似合わないし、雰囲気も出ないと思うんですよね。ダンス公演は体の運動をみるものですけれど、きたまりさんの演出はビジュアル(いやまあ体の運動もビジュアルの一個ではあるけれども、まあ所謂一般的なビジュアルって意味ね)でも楽しめた。めちゃ雰囲気でていた。目の前にいたなー。白拍子

 

今回も、古典を通じて人のいろんな感情を追体験しました。すごく豊かな時間。本当にいいですよ。木ノ下歌舞伎。夢中になれる。今後は「東海道四谷怪談」(6時間の超大作…!!!)もあるし、「心中天の網島」リクリエーション(これ初演みてギャン泣きしたやべえ公演)もあるし。楽しみすぎる。網島また観られるのやばすぎる。木ノ下歌舞伎があるから、演劇を離れられないとさえも思うのよ。楽しみだー。

(劇)ヤリナゲ「モニカの話」について

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(劇)ヤリナゲが、演劇の話をやるときいてびっくりした。

ヤリナゲの公演は何度か見ているが、私が見たそれらの公演も、またそれ以前の公演も共通するのは所謂「社会問題」を扱っていた。この「社会問題を題材に~~」っていう書き方、本当は好きではないんですけれど、そういったほうがわかりやすいのでいまはそうしています。社会問題っていうか、なんでしょうね、脚本・演出を担当する越さんが「心にひっかかった問題」を扱っているといったほうが現実に近いですね。越さんは、自身が心から気になったことしか、題材として扱わないと思うので。それが、これまで「出生前診断」だったり「食肉」の問題だったりしただけ。それらは、越さんだけでなく、この世の中にいる現代の結構多くの人が気にしてきたし、それらの「ひっかかり」を提示された観客も、わりと多くの人が同じような選択肢のはざまで悩むんだと思う。

でも今回はなにせ「演劇」が題材。出てくる人たちは「演劇をやっている大学生や若者、と、その演劇サークルのOGたち(しかもこのOGたちは演劇団体を立ち上げた。その名も「モニカ」)」っていう。どうしたヤリナゲ。いまさらこんな青臭い芝居をやるのか、と思った。演劇サークルの人々を描いた芝居なんて、これまで死ぬほど見てきた。そのどれもが、現役の大学生や、大学出たての人たちが作る公演だった。見るたびに、演劇に関して悩む人たちの、なんというか世間の狭さみたいなものが感じられて、すごくつまらないなって思っていた覚えがある。なんというか「それは演劇をやっている人が身近にいる人にしかわからん悩みだよ」っていう突っ込みが、どの公演もぬぐえなかったんですよね。

でも、やっぱりそこはヤリナゲ。今回も、完全に「自分に返ってくる笑い」でした。全然他人事じゃないドラマがそこにある。なんでなのか全然わからないんですけれど、ヤリナゲに出てくる人たちにはみんな共感できる点があって、でもそれが全然押しつけがましくないというか…ほんと、ドラマの中でそれを見せてくれる感じがあります。うん。「え、この人こんな状況だけど、次のアクションどうするんだろ」「うわ、気まず。どうなんねんこの空気」みたいなシーンが随所に出てきて、なんというかいつのまにか前のめりになってしまうんですよね。

この話はホラーの要素もあるっていう触れ込みでした。まあそれは、本作品にある「主人公の女の子の周りから人がどんどんいなくなっていく」ていう要素ゆえの「ホラー」というカテゴリーなんですけれど、実際はこれ、所謂「夢落ち」になる。みんながいなくなっていくのは、結局はその主人公の女の子(演劇サークルOGで、同期の女子と演劇団体を立ち上げた)の悩みゆえにみてしまっていた夢の中の話だった、的なオチ。で、その悩みっていうのが結構いろいろある。と、私は思った。「同じ劇団の子がやめちゃう」とか「主宰の作る演劇が最近好かん」「でも演劇自体は続けたいし主宰のことが嫌いなのではないんだよね」とか「彼氏が最近つめたい」とか。すごく、すごく浅く書いてしまったけれど、こんな言葉では語り切れないぐじゃぐじゃした悩みが、劇のそこここでじんわり表現されている。その、じんわり加減が私はかなり好きで。ほんと、ヤリナゲの劇は押しつけがましくないんですよね。本当にいろんな劇作や小説を見てきた方でないと、あんなふうに人間のドラマをうまく見せられないと思う。下手な演劇公演では、役者がすべて口で説明してしまうっていう特徴があるんですけれど、ヤリナゲはそれが全然ない。

夢から覚めた主人公の女の子が、一人のこって部屋の中空を見つめるシーンがラストなんですけれど、あれ、なに考えてたんでしょうかね。私は「あれ、私なんかいろいろ悩んでたのかな、抱えてたのかな」ってなんとなく悟っていうような感じがしました。ほら、よく、熱だして初めて疲れていたことに気づくみたいなのありませんか? めちゃめちゃ暴飲暴食している自分に気づいて「ストレスたまってたな」みたいな。そういう、なんかこう、ある意味自分を客観視し始めているような感じがしました。彼女がラストシーンに中空で見つめていたのは、彼女自身の幻影なのかもしれませんね。

あと、個人的に「うおーさすがかよ」って思ったのは、あれですね、就活生の男の子がいるんですけれど、彼が序盤に就職試験で出されたグループワークの問題について話すんですね。「ブレーキのきかないトロッコがあって、そのまま走り続けるとその先にいる5人が死ぬ。線路の切り返しをすれば、1人が死ぬだけで済む」という状況だと、みんな1人が死ぬほうを選んでいたのに、これが「あなたが太った男を突き落としてトロッコの前に出せば、5人は助けられる」という状況になると、とたんに「命の尊厳が~」とか言い出してためらう人が出てきた。っていう、そのことに違和感を覚えたんだ、って話すんです。その就活生の子が。で、その子は実は、お母さんが病で倒れて、かつ弟が受験生っていう状況ゆえに、演劇をやめることを決めているんですね。で、その彼が、モニカの主宰に向かって「僕がいることで5人(演劇団体側)を幸せにできる状況と、2人(家族)を幸せにできる状況がある。最大幸福をとるのであれば、5人を選ぶべきなんだ」と語るシーンがあって。いやなんかもう。すげえなと。その就活生の子は、守れる命の人数は変わらないのに、自分が人の生死を左右することにかかわる状況になると「命の尊厳が~」といってためらう人を非難していたにもかかわらず、いざやはり自分ごとになると、「幸福になる、救える人数だけで判断することはできない」と痛感してしまうわけです。その、頭と心の矛盾を感じながら、モヤモヤ(これも演劇のテーマを語る中でよく出てくる言葉。この言葉もあまり好きではないけど、ついこう表現してしまう…)している。その2層にわたって彼が抱いているモヤモヤを観客が理解したときの「人間ツライ…シンドイ…」感は、はんぱじゃない。だって「ああわかるなあ」ってなるから。その就活生のモヤモヤが、自分ごとになるから。

とにかくもう、ヤリナゲは面白いですよ。ドラマがある。そして、自分に返ってくる。役と自分がどんどん接近していく。そしてぐるぐると悩んでしまう。自分でも気づかなかった悩みってあると思うんですけれど、それがヤリナゲを見ることでより輪郭がはっきりしてくるというか。ヤリナゲきっかけで、悩みやひっかかりがはっきりして、さらに自分の視座が決まってくるというか。なんだろ、「真剣十代しゃべり場」みてる感覚かな。違うか。ごめんなさい違います。

でも、実りのある演劇体験とはこういうものか、と彼らの芝居を見るたびに思ってしまうのです。そして、ヤリナゲが今回「演劇」に体当たりで挑んでくれたこと、すごくよかったと思います。だって、主宰の越さんが心からきっと一番切実にひっかかったことだから。それを「演劇がテーマの芝居なんてだせェから」とかいったような理由で見過ごさないで、真正面で取り組んでくれたから。ヤリナゲはすごく誠実、そういう点も。虚栄を張らない。好感がもてます。

あと、いつも思うのは、浅見さんすごい好きです。あの、軽薄なオトコ感が超絶妙で、めっちゃ色気があります。わたしだけかな、こう思うのは。

万能グローブガラパゴスダイナモス「月ろけっと」について

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こんにちは、よもぎです。

 

2017年1発目、観劇始めでいってまいりましたのは福岡の劇団「万能グローブガラパゴスダイナモス(通称"ガラパ")」の「月ろけっと」という公演です。

ガラパの芝居は2回目。「西のメリーゴーランド」以来の観劇となります。今回もその時とおなじ、下北沢は駅前劇場での公演です。

 

福岡を中心に、九州小劇場界ではNo.1といっても過言ではないほどの人気を誇るガラパのお家芸は「シチュエーションコメディ」だ。ある特定の場面・場所に、様々な人間が登場し巻き起こす悲喜こもごもを描き出すドラマジャンルである。ガラパは2005年の劇団設立以来、そのシチュエーションコメディにこだわって創作活動を続けてきた。その観る人を選ばない、ポップで、正直で、無条件におもしろい作風が支持され、九州に限らず全国にファンを増やし続けている。

 

(※以下、ネタバレあり)

「月ろけっと」の舞台は、クラシカルなロッジ風の家のリビングだ。宇宙飛行士を目指す弟・悠里を金銭的に支える姉・かもめが目を覚まし、自身の恩師・弥生と再会するシーンから幕が上がる。かもめは、勉学に励んでいたはずの弟が、仕送り金を女につぎ込んでいたことを聞きつけ、弟を問いただしに来たようである。その弟が連れてきていた見知らぬ女・マヤに、かもめが「お前は一体誰なのか?」と問うと、彼女は「悪魔です♡」とキュートに返答する。さらに、マヤの仲間で"悪魔界のTVクルー"と名乗る人々も登場。彼らは、かもめ、弥生、悠里に加え、悠里がバイトをするパソコン教室の運営者・三枝に対し、とあるゲームに挑戦させる。そのゲームとは、「願いをかなえてもらう代わりに、悪魔に寿命を渡す」というもの。かもめたちは、最初こそ寿命を渡すことに抵抗があったが、徐々に自身の夢や欲望を叶えられる快感に溺れてゆき―

 

劇団主宰であり、脚本・演出をつとめる川口氏は当日パンフレットにて「間違いというやつは、何より大事なコメディの種です。欲望に振り回されて間違っていく人々のアレコレを、笑いに包んでお届け」すると記載している。これほどまでにバカ正直に、本作品をプレゼンテーションしている当日パンフレットはないのではないかと思うほど、この言葉通りの作品である。特に、序盤~中盤ごろまでは、悠里への(同性ゆえに)叶わぬ恋心を抱いている三枝の「寿命の削りっぷり」や、悠里との距離の近づけ方の絶妙さに笑わされる。気になる人と触れたら次はその先へ、次はその先へ……と、三枝のはやる気持ちが、観客席にダイレクトに伝わる。観客たちは、叶わぬ恋へすがる三枝の姿を滑稽にみつつ、(流行りの?)ムズキュンな心持ちをもって見守るのだ。その間、駅前劇場では観客席と舞台面が混じりあい、一つになるような、きわめて"演劇的"な心地よい空間が展開される。

 

しかしながら、本公演はただのシチュエーションコメディにとどまらない。主人公・かもめは、本来は自分が夢見ていたが絶対に達成できない宇宙飛行士になるための条件が、この悪魔との取引によってクリアできることを知る。かもめはそれ以降、タガが外れたように寿命を悪魔に引き渡していってしまう。ひとしきり取引をしたのち、引き渡した寿命の長さを知ったかもめは、生に執着する醜い人間へと変貌。買い取った願いの「返品」を求めて泣き喚き、最後は多額の寿命を渡して「今日の記憶を消す」よう依頼するのだ。この時のかもめ役・横山祐香里氏の演技はまさに絶品である。欲望にまみれて自分を見失い、その後愕然として泣き叫ぶ。こういったダイナミックな演技は、ともすれば、過剰な演技となってシラケてしまいがちではあるが、横山氏の演技に観客をシラケさせる隙は一切ない。これはきっと「マジでかもめになっている」からなのだろう。「これは演技だ」という考えを観客に1mmも持たせないほどの気迫。その純度100%の演技(人はこれを"憑依"と評したりもするだろうが、彼女たちは霊感でも呪術でもなく"技"でそれをなしているのでこのように呼びたい)は、コメディを成功させるために必要な最高の要素でもある。

 

弥生役・杉山英美の好演も光る。はじめこそ、かもめの良き理解者的な立ち位置で存在していた弥生だが、かもめが悪魔との売買に溺れていくのを看過し、さらには助長させていた人物として描かれる。弥生は「人の人生を左右するのが楽しい」という感情でもって、かもめたちを"悪魔との取引沼"にいざない、沈めていったのだ。ここでもまた、人間の醜く、恐ろしい部分が表出している。最終的には「超不気味で怖い先生」になる弥生であるのだが、本性が明らかになる前までは「超穏やかで優しい先生」としてそこに存在する。その落差の大きさこそが、弥生を面白くしている最大の要因であり、杉山氏の持つ最大の魅力だ。杉山氏は、優しい⇔怖い、不気味⇔穏やかの間に広がる淵を軽々と飛び越えてゆく。本当に、"役者として"たいそう不気味な人間であると感じさせる。

 

これまでガラパは、SF要素の全くない純粋なシチュエーションコメディを作ってきた。今回のようなSF的な要素を入れ始めたのは「西のメリーゴーランド」から。川口氏はこのSF×コメディに可能性を感じているという。 王道ど真ん中のコメディを極めた川口氏が、SFという"第二の武器"を手に入れてしまったのだ。

SFとコメディという調味料を使って、これからのガラパはどんな人間模様を描き出してくれるだろう。苦くて不格好な野菜を、そのまま出すのは一流の料理人ではない。野菜の苦みは、美しくおいしく食べやすく仕上げられた料理のなかで味わってこそ、趣がある。 ガラパの作品は、そんな演劇だ。これまでも、これからも、より一層。